歴史

慈眼山金胎寺(元観音院)は天長年間(平安初期八二四年頃)弘法大師空海が伊勢神宮をご参拝された後、この地に錫杖を止め黄金の秘仏を胎内仏として納めご開眼され胴体は仏師運慶が頭は春日により彫刻された珍しい千手観音像でした。

当初は鍋ヶ崎(今のフェリー乗り場辺り)にあり戦国時代(文禄元年・一五九二年)に九鬼義隆公が鳥羽城築城にあたり、千手観音を場内に祀り、文禄の役の際に武運長久、戦勝祈願、海上安全を祈願され鳥羽城主代々の祈願寺として栄えました。

江戸時代(寛永十年・一六三三年)内藤忠重が鳥羽城の二ノ丸、三ノ丸の増設を行い観音院は中之郷の今の場所に移され(寛文四年・一六六五年)に内藤忠政が二ノ丸の余材を使いお堂を改修され慈眼山観音院として改めました

(文久年間・一八六二年)には四国の舟頭により境内に四国八十八ヶ所霊場が開かれました。

明治元年(一八六八年)になると廃仏毀釈、神仏分離令発令とともに慈眼山観音院は廃寺となり当時、稲垣家が下野国鳥山(栃木県那須鳥山市)から鳥羽城転勤の際に移りし稲垣家の祈願寺である雄譲山金胎寺を合併させて寺号山号改め慈眼山金胎寺となったと言い伝えられています。

また金胎寺の山は樋ノ山と呼ばれその昔、自然居士が鳥羽の唯一の水源地であった樋ノ山に樋を設け水が流れる仕組みを作ったと言われております。

金胎寺は鳥羽にとって重要な要であったのではないかと思います。しかしながら、平成七年に大火にあい本堂や御本尊を焼失してしまい、現在は地域の方と本堂再建に向けて取り組んでいます。

昨年は信仰の厚い信者様から聖観音菩薩像、不動明王像を御寄進いただきました。金胎寺にお参りいただいた方々に、観音様、不動明王様と向き合い和やかな心でお帰り頂ければ幸いでございます。

投稿日:2019年5月19日 更新日:

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